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●『I'm not there』
きのう書いたつづき。 きのうこの映画を見たばかりの時にはディランの鬱々とした部分と、ケイト・ブランシェット演じるロックなディランにばかり目がむいていたのだけど、朝になってジワジワとこの映画が大変なことをやってのけたと、思って、チィちゃんの散歩をしながら唸ってしまったのでした。 亡きヒース・レジャーとシャルロット・ゲンズブールがこんな雰囲気を出していたね。 でも、コッチの方が10倍グッとくる。 せつない。 とぎれとぎれのコラージュのように見える演出は、ディランを知らない人にとっては「疲れるな〜」と思わせるものだったと思うし、わたしのように、まぁまぁ知ってる人にとっても、ドラマとして面倒くさいなあ〜と思わせるものではあった。でも、この細切れな作り方が、実は伝記としてはもっとも『正しい』表現の仕方(おもしろいかおもしろくないかは別としてだ)なのではないか?? 6人で描くディランの姿。ディランはたくさんの顔を持っていて、その一つ一つが濃厚だからそれが別個に語られてもドラマになった。考えてみれば、ディランに限らずどの人にもたくさんの顔がある。SFのように、「IF」詩人になっていたら・・・とか「IF」パパになっていたら・・・とか「IF」ロッカーになっていたら・・・とか、時間をターニングポイントに戻してみたい気持ちというのがある。もしもあの時こうなっていたら、今はきっとこうなってああなって、そして不幸に死ぬだろう、もしくは幸せな一生を送るだろう、という具合に。でも、人間は、実はそんな一つのことだけで70年、あるいは90年の一生を過ごすわけではないものね。 人間は死ぬ時に、この映画のようにたくさんの場面をフラッシュバックさせて見るのだろうと思うのだ。どの場面がどの場面と繋がって、などということもなく、唐突に10歳の時のわたしが出てきたり、17歳のわたしが出てきたり32歳のわたしが出てきたりするハズなのだ。だから、この映画は、もしかしたらディランが死ぬ時に見る走馬灯なのではないか・・・・そんな風に考えたら、背中がス〜〜ッとしてきた。それを、何人もの性別も年齢も違う俳優が演じるなんて!こんな事は誰も考えなかった上に、とても全うな「ある人」の伝記の表現方法ではないか、と、その深い思想とディランに対する愛情と尊敬に、あとから胸をうたれてしまったのだ。 似てるとか似てないとかの問題ではないのだ。そしてこの細切れの意味に脱帽だ。ただし、それは娯楽としておもしろいかどうかとは別問題だとは思うけどね。 ケイト.ブランシェットのディラン。 惚れてまうやないかぁ〜 娯楽としてとらえるのなら、ディランの曲がたくさん聴けるのは楽しいし、衣装や、年代ごとの雰囲気を堪能できるのも楽しい。ケイト・ブランシェットの演じるロッカー時代は一番華やかで楽しめる。キュートなイーディ(風)、ビートルズらしい面子のパーティシーンや、歌うシーンもカッコいい。ホーボー時代もわたしは好きだった。ウッディ・ガースリーと名乗る子どもは、まったくもうロバート・ジョンソン並みの達観した精神を披露し、できあがっちゃってる。ランボーの姿もやはりディランなのだった。これもディラン、あれもディラン。似てるとか性別が違うとか年齢が違うとか、走馬灯の中では関係はないのだ。 リチャード.ギアのシーンだけがわたしには疑問なんだけど・・・・。ディランのビリー・ザ・キッドは多分わたしは見てなかったと思う。 最初わたしはこのシーンを勘違いしてた。ふんぞり返っている白髪のジサマが「代弁者」を受け入れてそのまま歳をとって神様みたいになっているディランの末路、を表現してるのかと思ってしまったのだ。なんだかちょっとこのシーンがわたしにはつまんなかったので、流して見てしまったから勘違いしてるかもしれないけど。 その時リチャード・ギアが、かつてのしつっこい記者の顔になったようだったけど、そうじゃなかったっけ・・・?(リチャード・ギアがディランだ、と知らなければそのまま勘違いしっぱなしだったと思う)代弁者としてプロテストソングを歌いつづけ神様になったディランがあの記者を思い出して、安住してしまっている自分を恥ずかしくおもっている・・・ってことだと思ったんだけど、そうじゃなかったんだろうか?(この時点で、この老人もギアもどっちもディランなのだとわたしは思っていた)どうも、ここだけちゃんと見てなくて曖昧なんだけど、そんな風に勘違いして見ていたせいで、この監督の意図が理解できてしまったんだから、不思議なものだ。ディランはこの白髪の老人のように椅子に座りっぱなしにはならなかった。白いスーツと白いエレキギターを持って武道館に現れた時、ディランはそんな椅子なんか捨ててたのだ。それはとても潔い姿にわたしには見えて、カッコいいと思ったよ。人は変わるのが当たり前なんだから。「CHANGE!」だよ〜 最後に、音楽ですが・・・なんでまたアントニーなのかなあ・・・。前にレナード・コーエンのトリビュートを書いた時にも、アントニーの歌い方がキモイ、と書いたわたしですが、今回も最後の方で「Knock'in on the heaven's door」を歌っていて、キモイと思ってしまった。ルー・リードの「ベルリン」(映画になった)でのアントニーは泣けるらしいのだが、聞く機会ほとんどないってのに、遭遇するたびにキモイ、と思ってしまうのでナニヲカイワンヤ。実際にはわたし、この人のことまったく知らないんですけど・・・、ここまでゾゾッとなってる人って滅多にないのよ。実際に見たら、わたしも感動するのかなあ〜〜、次は「ベルリン」借りてこようかなあ。
by eggdance
| 2009-04-17 20:45
| music
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